私Ms.Cは東日本大震災当時、宮城県仙台市若林区荒浜地区に住んでいました。そして津波により地区が全滅しました。
私の家も津波で流出し、跡形も無く消えてしまいました。がれきの中から自分たちの荷物を見つけ出すことはできませんでした。何一つ。
メディアでは毎年、3月11日の約一週間前から東日本大震災が取り上げられ、当時の記録や証言が語られます。3月11日を過ぎると、メディアでは話題に取り上げらなくなります。世の中が切り替わった感じがして、それはそれでいいと感じます。
でも私は荒浜での暮し・あの日の出来事・亡くなった大切な人達のことは、片時も忘れることができません。
仙台市若林区荒浜地区で毎年3月11日に行われる慰霊祭の様子や、荒浜地区までのアクセス・震災遺構とされている荒浜小学校についてご紹介します。
目次
毎年3月11日の慰霊祭
自宅から荒浜地区まで
私は、現在は荒浜地区から車で15分程の場所に住んでいます。毎年、震災発生時間の午後2時46分に向けて、家族全員で家を出発し、荒浜地区に向かいます。
私が住んでいたのは仙台市若林区荒浜地区。荒浜地区や当時のことを記録した記事があります。
3.11東日本大震災【津波体験者の実話】
荒浜地区に沿って国道10号線が走っています。国道10号線から海岸までの間に、約700世帯が暮らしていました。
震災前の荒浜地区は、風光明媚な昔ながらの住宅地で、海岸に近いという事もあり、海水浴シーズンに賑わう地区でした。今はその賑わいが3月11日に変わったという感じです。
毎年のことながら、国道10号線を挟んで渋滞。海岸まで車で行くのは時間がかかるので、適当な空き地に車を停めます。皆さんそんな感じです。
3月11日は、毎年とても寒いです。私が住んでいる宮城県仙台市では春の風がとても強いのですが、3月だと気温も低いので、尚更寒く感じます。
車を降りると、冷たい潮風が体に吹き付けます。3月11日に荒浜海岸を訪れる方は、防寒をきちんとして、耳が隠れる帽子・手袋も必須です。
午後2時46分
海岸が見える堤防の上で黙祷です。人の声は静まり返り、黙祷の合図の「プー」という音だけが鳴り響きます。
黙祷が終わると、堤防にいる人達に向けて鎮魂の能の舞が行われました。冷たい海風の中でも、皆引き込まれて観ています。
砂浜をならして能の舞台に見たて、厳かに舞が行われました。
プロの芸を持っている人って、すごいです!強い向かい風を浴びながらでも、堤防の一番上まで声がはっきりと聞こえます。
風で舞がぶれることもなく、笛や太鼓の人もかじかむ体をものともせず、厳かに演じます。
砂浜から出ると鎮魂の鐘が設置されていて、誰でも鳴らすことができます。鐘の入り口には、津波が13.7Mの高さであったと記す、小さなモニュメントもありました。
我が家も、天国の大切な人達に向けて、「こちらは今日も寒いですよ」と言って鐘を鳴らします。
荒浜地区の中央を流れる貞山運河の橋の近くには、荒浜の歴史が標された碑が置かれています。
午後3時15分
旧荒浜小学校から、空に向けて黄色い風船が飛ばされます。これは、NPO団体の企画で、毎年行われています。
あの風船って、どうなるんでしょう?
上昇する途中にガスが膨張して破裂し、多くは海に落ちるそうです。自然に還るまで1年程かかるので、魚が誤飲するなどの問題があり、環境問題にもなっています。風船のひもが紙だったのは、環境に配慮してのことだったのかな。
荒浜地区から自宅まで
我が家は風船を見て、何件かのお墓参りをします。そして亡くなった人のいるお家をまわってお線香をつけさせてもらい、家族の方々と近況報告をし合います。
これが毎年3月11日の恒例になりました。
最後は夫の同級生の家でお線香をつけて、宴会です。夫の同級生の家では、7人家族の内5人が亡くなりました。
震災当時、その同級生は未婚でした。今は結婚して二人の子供のパパになっています。家業を継いで家を守り・家族を守っている姿を、亡くなったご家族はどう見てるのかな、と思ったりします。
この家族とはしょっちゅう会っているのですが、いつも会っていてもやっぱり楽しい宴会。
亡くなった方がその様子を見ているとしたら、自分の家族の元に人が集まって、今生きている人が楽しくしているのが何よりなのかな。
次に、荒浜地区へのアクセスをご紹介します。
仙台駅から荒浜地区へのアクセス
地下鉄とバスを乗り継ぐ
地下鉄東西線で【仙台】→約15分で【荒井駅】に到着→仙台市営バスで約15分で【旧荒浜小学校前】に到着
*旧荒浜小学校から海岸までは、徒歩約7分です。
レンタカーで
仙台駅から荒浜地区までは30分程で到着します。
タクシーで
『語り部タクシー』をご存知でしょうか?東日本大震災当時の状況を説明しながら被災地を巡ってくれるタクシーです。
料金などは各タクシー会社によって様々ですが、仙台市内の主要な被災地を巡るコースだと、
小型タクシー1台・2時間・10,920円~が一般的なようです。
多くのタクシー会社で実施されています。詳しくはこちら。
徒歩で
荒浜地区は、仙台市中心部から続く住宅地とは離れた場所にあります。
住宅地が途切れ、田んぼだけの風景が続く先に国道10号線があり、国道10号線を境目に荒浜地区となります。
ひたすら続く田んぼに沿った歩道を、歩いている方を時々見かけます。「どこから来たのかな?」といつも疑問になります。
「仙台駅から荒浜地区まで徒歩で来たとすると3~4時間はかかってるな。」といつも思います。
次に、震災遺構として残されている荒浜小学校についてご紹介します。
荒浜小学校
荒浜小学校は、震災遺構として一般公開されています。建物の一部は震災当時のまま残されていて、写真や映像も展示されています。
荒浜小学校の公開情報はこちら。
仙台市若林区荒浜地区は、津波によって地域が全滅しました。
震災当時、荒浜地区に残っていたのは、荒浜小学校と鉄筋造の一般住宅数軒のみでした。
震災後、荒浜地区は津波危険区域とされました。住民が戻ることはできないとの決定が下されました。
荒浜地区に戻りたいと願い、最後まで解体をしていなかった数件の一般住宅も、今はありません。
荒浜地区に残るのは、荒浜小学校のみです。荒浜小学校の北にパークゴルフ場が整備され、海岸を臨める公園もできました。
防災意識を持って頂きたいという、私からの願い
地震がとても多いですね。私は地震が起きる度にハラハラします。
「あの時のように揺れが大きくなったらどうしよう。」
「子供達を守れなかったらどうしよう…。」
と、鼓動が早くなります。
これから先も、大地震が予想されていますよね。代表的なのが南海トラフ地震です。これを機にもう一度、自宅の防災を見直して頂ければと思います。
自宅で被災するという想定だけではなく、是非「家族全員が出掛けていたら」という想定もして、家族で話し合って下さい。
東日本大震災は、以前から予想されていました。2011年3月11日の数年前から、ラジオでも毎日地震についての放送がされていました。
私が覚えているのは、
「大地震が来たら、津波は必ずやってきます。」
という言葉です。私が会社から帰宅途中の車の中で、夕方5時過ぎくらいに必ず放送されていました。
「車で逃げないように・すぐに高台に避難するように
」と、毎日呼びかけられていたにも関わらず、本気で家族で防災について話し合っていた人は少数だと思います。
実際、私の防災意識もとても低いものでした。東日本大震災当日に自宅にいたら、部屋の片づけを優先して避難しなかったのではないだろうかと、今でも思います。
地震研究をされている学者さんが提言していることは、本当になります。身をもって思い知りました。防災の意識を高め、これから先の災害で犠牲者が出ることのないように、どんな小さな子供でも自分の身を自分で守れるようにご家族で話し合ってみて頂ければと思います。
人間は自然災害には勝てません。簡単に命を失います。自分の身を自分で守れるように、考えてみて下さい。
東日本大震災を体験し、津波に大切な人・家・故郷を流された実話も掲載しています。
3.11東日本大震災【津波体験者の実話】