3.11東日本大震災【津波体験者の実話】

2011年3月11日、午後2時46分。東日本大震災が発生しました。

地震だけではなく、大津波や地震による火事など、被害は甚大でした。

震災当日、一人一人が大変な体験をしました。知っている範囲で記録しておこうと思います。

私は震災当時、仙台市若林区荒浜地区に住んでいました。この地区は、津波で集落が全滅しました。

荒浜地区の人々のお話しです。

初めに、知っておいてほしいこと

「宮城県沖で大地震が発生する」ということは、何年も前から予測されていました。「大地震発生の確率は70%」と聞いたのを覚えています。

ラジオでも、
「地震が起これば津波は必ず発生します。すぐに避難して下さい。」
という呼びかけが、地震のずっと前から行われていました。

それでも、「津波なんて来ない」と思っている人が多かったのが現実です。

荒浜地区は海抜0m。逃げる場所は小学校のみ。

東日本大震災の2年ほど前に、義父に聞いたことがあります。
「津波は来ると思いますか?」

義父の答えは、
「来ない来ない。今までだって海外で地震が起きて避難指示が出たことがあったけど、津波なんて50㎝とかそんなもんだったし。」
でした。

私自身も、津波が来るなんて考えもしませんでした。でも、大地震も津波も来ました。

東日本大震災当日から、私の頭の中に何回も廻ったのは、
「学者さんのいう事は本当だったんだ。信じなければいけないんだ。」
という考えです。

将来起こる地震予測で有名なのは、南海トラフ地震ですよね。予測されている地域に住んでいる人に出逢ったら、
私は必ず「防災してね!」と言っています。

災害が起きたら、
「それぞれが自分の身を守り・逃げる」
「家族の集合場所を決める」
ということを、絶対に子供と定期的に話してねと言います。

東日本大震災では、家族がお互いを探し合っている内に津波に襲われた方もいました。

小学生の子供を家族全員が捜して、全員が津波に襲われて亡くなり、捜されていた子供はきちんと避難していたというケースもあります。

その子は、1人になりました。

皆がそれぞれに身を守り、集合場所をしっかりと決めておけば起きなかった悲劇です。

あまりにも辛い話が多すぎて、繰り返さないでほしいという思いで防災について話すのですが、真面目に聞いてくれる人はいません。

地震と津波の時のことを、震災経験者同士で話すことはよくあります。話している分には平気でも、今回文章にして目で見ると、とても辛かったです。

私はPTSDではありませんが、それでも、少々の吐き気と頭痛に襲われながら書きました。震災経験者の中には、
辛すぎて読めない方もいらっしゃると思います。

それでも文章にして記録するのは、将来の大災害で命を落とす人が出てほしくないと強く思うからです。

興味本位で読むという方や、災害に対してあまり深く考えていない方の心にも、防災の意識が芽生えることを願って記録しました。

 

玄関のドアを閉ざした夫婦

午後2時46分、大きな揺れが起こりました。揺れは数分間続き、いったん収まりました。それから津波が到達するまでは、40分程時間がありました。

旦那様の足が悪く、寝たきり状態で暮らしている高齢のご夫婦がいました。

「あのご夫婦に声を掛けていかなければ」
と思った人が、玄関を叩きました。

「津波が来るよ!逃げるよ!」
と、玄関を開けた奥様に迫りました。

奥様は何も言わず、丁寧に手を合わせてお辞儀をし、玄関を閉めました。鍵も閉じられました。

足が悪くて、自力で全く動けない夫を連れて逃げるのは、誰にとっても負担になるだろうと考えたのだと思われます。

そのご夫婦は、津波に襲われて命を無くすことを知っていながら玄関を閉ざしたそうです。

車ごと津波に流された

荒浜地区にある建物は、民家・小さい商店・小学校。4階建ての小学校が、地区内の一番高い建物でした。

男性は、自宅から車で荒浜小学校に向かいました。

向かう途中で、子供の頃お世話になった商店の店主が、今は足が悪くて寝込みがちなことを思い出しました。

「あのおんちゃん、逃げたべか」(あのおじさん、逃げただろうか)
と気になり、家に向かいました。

家に着くと、夫婦は逃げずにそこにいました。

「すぐ逃げっど!」(すぐ逃げるぞ!)
と喝を入れ、自分の車にご夫婦を乗せた瞬間、津波に襲われました。車ごと流されました。

ご夫婦の自宅は、海岸から2㎞弱の場所。津波の勢いは、激しいという程では無かったそうです。

「それでもあの時、車が横転したら死んでいた。」
と男性は言っています。

車が流された先が自動車整備工場の近くでした。自動車整備工場の2階には、数人が避難していました。男性は車を降り、自分が濡れながらご夫婦を自動車整備工場に入れ、最後に自分も入りました。

あの日は寒くて雪もちらついた日でした。水に濡れた体が冷えて、震えました。

整備工場の2階には、運よく灯油ストーブがあり、暖を取ることができました。

夜になり、外から「助けて」という声があちこちから聞こえてきました。夜が深まるにつれ、その声は段々と聞こえなくなったそうです。

翌日、自動車整備工場にいた人達は、自衛隊に救出されました。

津波から走って逃げた

男性は、ガソリンスタンドで働いていました。地震が起きた直後、ガソリンスタンドは混雑しました。男性は津波直前まで、仕事をすることを余儀なくされました。

地震発生から40分程経過し、気づいた時にはもう目の前に津波が迫っていました。大きくて黒い波が、家々をなぎ倒しながら自分のいる場所へ向かってきたそうです。

男性は、津波と反対方向に走りました。

走ってすぐに津波にのまれました。男性は骨折したものの、運よく助かりました。男性が津波にのまれた後に、波の勢いが少し収まったそうです。

男性と一緒に働いていた、ガソリンスタンドの店長は、津波にのまれて亡くなりました。

遺体が見つからず、ガソリンスタンドの仲間が震災直後に独自で捜索していたのを、今もはっきりと思い出します。

津波で亡くなった方

荒浜地区の入り口には自動車整備工場がありました。この工場を経営している男性は、津波で亡くなりました。

地震発生時は、自宅にいたそうです。

大きい揺れが収まると、
「明日納車の車があるから」
と言って工場に向かいました。

後から奥さんも工場に向かいました。

東日本大震災から数週間後、彼と奥さんの遺体が見つかりました。二人の遺体は近くで見つかったそうです。

防災訓練通りに行動して津波被害に

集団で避難しようとして津波に襲われた方達もいました。

地震後、防災訓練通りに近所の公園に集まり、集会所に向かおうとしたところを津波に襲われたそうです。

全員助かりませんでした。

荒浜地区の映像がTVで放映されなかった理由

荒浜地区内で津波被害から逃れられるのは、小学校の屋上のみでした。小学校よりも高い建物はありません。

4階建ての小学校の、3階部分まで津波は到達しました。小学校の校庭まで辿り着いたけど、間に合わない方も沢山いたそうです。

地震発生から津波が到達するまで、40分程の時間がありました。

一旦小学校に行ったけれども帰った人や、貴重品を取りに一旦自宅に戻ろうとして、津波に襲われた方もいました。

津波の映像が、繰り返しメディアで流されましたが、荒浜地区の映像はほとんどありませんでした。

東日本大震災から数日間、私は食い入るようにTVを見ていました。私の住んでいた荒浜地区は、仙台市内の大きな被災地域なので、映像が出るだろうと思っていたのに、ほとんど出なかったのは意外でした。

何故かな?と疑問に思っていました。

狭い範囲に打ち上げられた遺体が多すぎて、メディアでは使えなかったという噂を後から聞きました。

最後に

災害を甘く考えないで下さい。

生活を奪い・命を奪い、残された人の人生も変わります。

大きな災害は、人間の都合に関係なく突然襲ってきます。

あの時突然閉ざされた人生がもし続いていたら…と思うと、悔しい思いが止まりません。

いつ起こるかわからない災害に備えて、家族で定期的に話してください。
  • 自分の身を自分で守ること
  • 集合場所を決めること
これだけは是非、決めておいて頂きたいと思います。

夫は、結婚して私が荒浜地区に住み始めた当初から
「大きい地震が来たら、津波は来るぞ」
と言っていました。

「津波が来たら小学校に逃げるしかない。小学校の扉が閉まっていても、外階段で屋上に行け。」
と何回も言われていましたが、私はきちんと聞いていませんでした。

実際にあの時家にいたら、逃げなかったかもしれないと今でも思います。逃げなかったら、子供も生んでいません。今の幸せな生活を知らずに人生が終わっていたことになります。

是非、合わせてご覧ください。

東日本大震災 仙台で津波の被害が大きかった荒浜地区の今

 

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